本来感を上げるためにできることはあるのか考えてみる
本来感を上げるためには、自分がありのままの自分を受け入れられる必要がある。
そのための有力な方法は、他者から、ありのままの自分を他者に受け入れてもらうことである。 ちなみに、「ありのまま」とは、「勉強ができるXXさんは素晴らしい」などの条件付きの肯定ではなく、無条件に受け入れるということである。
受け入れてもらう他者の選択肢
親から受け入れてもらう
この場合、他者として最も適しているのは、自分の親・祖父母ではないだろうか。 自分の子供であるというだけで、受け入れられる親は多いし、子供のころの自己肯定感を育む時期に適切な対応ができる。 そのため、もし親に連絡がとれるのであれば、自分にそういった気持ちなどがあったか確認しても良いだろう。自分からすれば、そう受け取ってなかったとしても、親としては子供のことを考えて行動していることが多い場合もあるから、過去の行動の意図を聞くことで愛されていたと感じるでのはないだろうか。
家族/友人に受け入れてもらう
次に適しているのは、恋人を含むパートナーや家族ではないだろうか。 親・祖父母と分けたのは、親子の縁を切った人よりも、離婚の方が件数が多く「ありのまま」を受け入れる限度が異なると考えたからである。限度を越えてしまうと、関係が崩れてしまう。なので、親ほど真に「ありのまま」を受け入れてもらうことは、難しいが他の関係よりは適していると考えた。
近い存在が、友人ではないか。人によってこのあたりの温度差があるだろう。家族よりも友人のほうが「ありのまま」を受け入れてくれると感じる人もいるだろう。
職場で受け入れてもらう
そして、難しい方になると、職場という選択もあるだろう。 職場の場合、対価を受け取って仕事をしていることや、周りの人と一緒に働いていることで、受け入れられるために求められる水準が高いだろう。 なぜなら、経営や管理側からすると、「これだけ給料を払っているんだから、ここまではやってくれないと」と考えることもあるだろうし、同僚からすると、「自分がここまでやっているんだから、ここまではやってくれないと」と考えたりもするからである。
職場で受け入れてもらうことについて考える。
周りの人の本来感の向上事例を聞いていくと、私は本来感を上げるためには、真に何があってもありのままを受け入れる必要はないのではないかと考えている。 というのも、対象者が、ある程度、「評価されるために」や「組織のために」と自己犠牲的な意識せずに、自分が好きなように仕事をしている感覚を持てた上で、受け入れられる経験があれば良いと考えている。組織のためになっているかどうか、ではなく自己犠牲的でなければよい。すなわち、組織に貢献するような行動をしていても、その行動に対して十分に動機づけがされていると良いのではないかと考える。
しかし、職場環境によっても受け入れられやすさは変わってくるだろう。 仕事に対する要求水準が高くなれば、自然に受け入れられづらくなる。 例えば、周りが残業で終電帰りをしているのに、自分だけ早く変えれば周りから不満を持たれて、受け入れられづらくなるだろう。また、報酬が高い場合は、給料の割に働きが悪いと感じられてしまい、受け入れてもらいづらくなる。
また、無理して合わせるということは、十分に動機づけされていない状態なので、受け入れられたとしても本来感が向上しなくなる。例えば、みんなが残業しているから、残業をしようと無理して合わせるなど。ポジティブな動機づけではなく、ネガティブな動機づけになっている場合や、受け入れられることを目的として行動することで、と本来感の向上が起きなくなる。
これまでの思考から、考えてみると要求水準の高い環境にいると本来感が向上しづらくなると感がられる。ここから、逆に要求水準の低い場所に行けばよいのかというと、それも難しい。意図的に要求水準の低いところに行くことで、本来感が上がるかの不安がある。
なので、本来感を上げるために行動するのではなく、本来感がおまけとして上がるような行動を取るのが大事なのではないか。本来感を上げることが目的にならないようにしないといけないのではないか。
一つのアイデアとしては、自分の得意なことを生かせる環境に行くことが挙げられる。 人よりも、単位時間のパフォーマンスの高いことをやって周りに貢献することである。
また、どんなにパフォーマンスを出しても、他者への配慮の欠けた環境に居ては、周りから相互な受け入れが発生しない。組織の考え方が重要である。 けものフレンズの「XXXが得意なフレンズなんだね」のように、得意なところを見たり、自分ができることを他者に求めるような考え方をしない環境や考え方にする必要があるだろう。
また、環境に自己犠牲的にはたらく人が多いと、周りへの受け入れができないようになるのではないかと感じている。残業に限らず、「自分は我慢して働いているのに」という感情が、全員で自己犠牲を求めるようになってしまう。 自己犠牲的な考えをする人が少ない環境に所属したいものである。