不快/不満から考える自分の価値観

不快/不満から考える自分の価値観

問題の構造

仕事において、不満を感じやすい人もいれば、感じづらい人もいるだろう。 しかし、同じ行動をみたり、同じように接されても不満を感じる人と、不満を感じない人がいる。 そこで、何が不満を感じる原因になっているのか、考える。

上で、「みたり、接されても」と記述したが、不満を感じる原因に関しては、 直接な利害を発生しない見る場合と、直接的な利害が発生する接される場合が考えられる。 今回は、こちらに関して場合分けしながら、考えてみる。

直接的な利害があるかないか

直接的な利害を発生しない見る場合については、 例えば、他者へのマネジメントとして適切ではない叱り方をみたときに不快になる人ような状態があげられる。 これは、自分に直接的な利害がないが、他の人に対して良くないことが行われていることに不満を感じる。 しかし、これは聞いた人が適切なマネジメントという基準を持っているから発生するのではないだろうか。 これは、マネジメントの技法として適切かどうかに限らず、自分の持っている基準を満たされていない行動に不満を感じているのではないか。

直接的な利害が発生する接される場合については、 例えば、自分へのマネジメントとして適切ではない叱り方をされたときに不快になるような状態があげられる。 これは、自分に対して直接的な利害が発生して、不快/不満の感じる。 では、こちらはどうだろうか。 同じ接し方をされたとしても、人によって、状況によって不快/不満を感じる程度が違うのではないだろうか。 もし、対応を受ける人がひどい叱り方を過去に受けていると、その人の中の期待水準が下がったり(管理職の接し方とはこんなもんだなど)、慣れが生じていたりすることで、あまり不快にはならないかもしれない。 逆に対応をウケる人が、ホワイトな会社でポジティブな接し方を続けられる経験しかなければ、大きな不快/不満を受けるのではないか。

直接的な利害が発生される場合と、されない場合に分けて考えてみたが、それよりも、その人の中の基準がどこにあるかの影響が大きく、利害に関しての影響が少ないのではないかと考えた。 この結論に関しては、自分の中の思考という限定的な観測範囲で思考しているため、違いがあるのか、違いがある場合は何が大きく影響するのかを改めて調査したい。