学習の評価について考えたこと

概要

多くの人と話すに連れて、自分が評価に対してのこだわりを持っていることが分かった。 学生時代に評価についての出来事について、高校のテストと大学のテストでのエピソードがあったので、そこから自分の考え方を分析する。

学生時代の話

学生時代には、高校と大学において、先生に対してテストと評価についてぶつかった。 高校時代は、先生の作るテストの設問が問題集と全く同じであったり、その教科に対する理解度が高くなくても解けるものであった。 自分としては、教科に対する理解度と点数が比例するテストを作るべきだとの思いがあり、先生に対してテストの改善を求めていた。 その時は、自分もそのテストに対して問題なく解けていたので、テストに対して改善を求める程度であった。

大学でも同様に、アルゴリズムのテストにもかかわらず、テストの問題がソースコードの丸暗記だったことに腹を立ててぶつかった。 テストは、解答のソースコードを配布し、それを覚えてテストに臨ませるものであった。 自分は、そのやり方に納得がいかず、丸暗記をせずに意味だけ理解してテストに挑み、その結果、自分は一部を間違えてしまった。 自分の解答と、もっと高い点数の友人の答案を比較したところ、自分の解答はアルゴリズムとして問題がなくプログラムをコンパイルすることですぐに気付ける文法ミスであったが模範解答との差があり、友人のものはアルゴリズムとしての理解は無かったが模範解答との差は少なかった。 プログラムをやったことがある人なら分かるかもしれないが、文法エラーかアルゴリズムに問題ありなのかは大きな差がある。 文法エラーだとすぐに修正することができるが、アルゴリズムに問題がある場合は、なかなか修復できない。 自分の中では、本質的な理解は、前者の方がしていると考えて不満であった。

しかし、そのテストに関してはそれだけではなく、テスト前に解答のソースコードを配布して覚えさせることをしていた。 その結果、学生は内容のアルゴリズムをほとんど理解せずにひたすら写経をして勉強をしたものがほとんどであった。 ここから、評価の方法を誤ると、評価を得ることに最適化した人の行動をミスリードしてしまう。 評価に対して自分の行動を最適化しないが、本質的なところに力を入れる性格であることが分かる。

他にも自分の行動を振り返ると、学生時代に長期休暇があると、課題は基本的に手を付けず、試験勉強だけをやっていた。 学力を身につけることが目的であり、宿題をすることは手段だと考えていたので、目的さえ満たされていたら良いと思ったからである。 昔から、本質的な目的が満たされれば良いと考える、成果主義であったことが分かる。

教育心理学概論から

自分は、教育心理学概論の評価の章を読んだ時に、今までの自分の行動を肯定されたかのように感じたので、紹介する。 歴史の問題があるときに、年号を何年に起こったか正確に言える学生と、年号は言えずに何年ごろにあったを言える学生はどちらが評価が高いかというものであった。 本によると、これだけの情報ではどちらが理解しているかわからないが、なぜそう思うのかを聞くことで理解を知ることが出来ると紹介している。 そのとき、前者の学生は年号として丸暗記をしていたので理由は無いと答え、後者の学生は前後の出来事や他の出来事との関係からいつごろにあったか計算した結果だと答える。 このとき、後者の周りの出来事から推測している学生の方が理解しているとのことであった。

まとめ

自分は、学習の目的は、対象の理解だと考えている。評価をする以上、本質的な理解度を測るテストにすべきである。 例えば、コストカットをしたいのであれば、他の大学の先生と連携するなどするほうが現実的である。 大学に至っては、研究が目的で授業が本来の目的ではないが、学生が評価に最適化するときに対象への理解につながらないことは避けるべき。

うまくまとまってないので少し反省。